彼岸花の咲く川で

12.陛下のはなし 01
「起きろ澪実」

その一言はいまいち聞いた覚えがないが、次いで襲った衝撃は忘れない。
卓が思いっきり長椅子を蹴とばしたというのは、周囲の状況から明らかだった。
いつもながら、あまりにも思いやりがない。
「そろそろ灯月さんの手も空くだろうし、陛下にも話がついてる頃だろう。行くぞ」
「その前に水……」
長椅子から落ちてつくったこぶをさすりながら、澪実は水をねだった。
「あれ、そういば鳥……は」
卓の部屋を見回しても、暁から預かった烏が見当たらない。
「人の子と一緒にいる。奴なら灯月さんのところだ」
卓はそういうと、どんと机に水差しとグラスを置く。澪実はそれを、好きなだけ飲め、勝手にしろと解釈して、勝手にした。

「その灯月さんって、だれ?」
「俺の上司だ」
卓が上着を羽織りながら答えた。
灯月さん、俺の上司、卓がさらりと言う様子に、澪実は瞬いた。
「どうした、あほ面晒して。行くぞ」
「ああ。たださ、お前がそういうんだから、相当できた人物なのかなって」
「まあ、な」



「そういえば俺、代が変わってから陛下にお会いしてないんだけど、どんな人?」
澪実は廊下の途中で卓に訊いた。
先代は黒髪に目元の鋭い痩せた男だった。しかも会ったのは1度だけ。
むしろ隣にいた護衛の鋭すぎる視線に凍り付いていて、容姿しか覚えていない。
今代は先代の子供だという話だけは訊いているが、それだけだ。性別すらも知らない。
「喪服の女だな」
卓は迷う様子もなくそういった。
「あと、先代によく似てる」
「先代に1回しか会ったことないんだけど」
「それでも、会えば納得すると思うがな」
そういって、卓は戸を開けた。

広い部屋だ。卓の部屋の数倍はあろうという部屋に、その少年はいた。
そう、どう見ても少年だ。
時折首を傾げると、白金の髪がきらきらと光る。
「灯月さん」
「ん?」

卓が声を掛けると、彼――灯月はぱっとこちらを向いた。
「ああ、そうか! あの人はまだ来ないから、そこにでも掛けて待っていてちょうだい」
灯月はそういうと、部屋の反対側にある応接セットを示して笑った。
その笑顔が、容姿に似合わずくたびれているのは彼岸の常である。
そして応接セットには、人の子がのんべんだらりと寝そべって本を読んでいる。
卓は灯月を手伝い始めたため、澪実はすることもなく椅子に腰を下ろした。
人の子は実につまらなさそうな顔で本をめくる。
待つことしばらく。灯月の机にあった本の山が卓によって片付けられたころ、唐突に人が入ってきた。